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毒親と人生に抗ってきた子供時代

こんにちは。

アストロハーバルセラピスト・さなです。

セラピストとしてお仕事をしながらアストロロジー(占星術)とカードリーディングを用いたYouTubeやセッション活動をしています。

はじめまして。はじめまして。 アストロハーバルセラピスト・さなです。 セラピストとしてお仕事をしながらアストロロジー(占星術)とカードリー...

 

自分の人生に争ってきた子供時代

『子供時代』を振り返って、決して自分が不幸だとか可哀想とかは思っていませんが、なかなかハードなことが多かった印象です。

正直いうとハッキリ覚えていないことが多くて、あまり子供の頃の記憶がありません。

今思うと辛い人生の中で現実逃避しながら過ごしていたんだろうなぁと思います。

父と母、そして弟と妹の長女として生まれました。

だけど実は私だけ養女で、本当はお兄ちゃんがいて、かなり歳の離れた妹がもう一人います。

つまり5人兄妹?

だけど兄には会ったことがないし、私の存在を知っているかも分かりません。

私が自分の母子手帳を見て事実を知ったのみ。

年の離れた妹は私の手で他の家庭へと渡しました。

当時は意味が分かっていませんでしたが、要するに養子に出したんですね。

今なら分かりますが、母は父の了承もなく勝手に下の子を養子に出したそうです。

もうこの冒頭だけで普通の家庭ではない感じがぷんぷんしますね。笑

まぁ今風に言うと『毒親』という存在でしょうか。

思い返すと悲惨なことが多くて、とにかく1日でも早く『大人になって自立したい』と願っていた子供時代でした。

暴力と恐怖を受け止めながら苔が好きだった幼少期

無理やりサブタイトルに『苔』を引っ張り出して可愛さ?柔らかさでカモフラージュしようと思っていましたが、全然ムリっぽいですね。笑

これを言うと確実に引かれるだろうなと思いますが、ぶっちゃけます。

私の記憶がある限りだと保育園に通っていた頃からすでに「いつか母を消してやる。」と思っていました。

と言っても6歳ぐらいで、小学校入学前だったと思います。

とにかく母が憎くて憎くて大嫌いでした。

物心ついた時には母が殺意と敵意の対象で、「この人から離れない限り私の幸せはない」と確信していました。

母に抱きしめられたり頭を撫でられた記憶はほとんどありません。

母が私の近くで手を上げる動作をしただけで、顔を隠す癖がついてしまっていた程でした。

その仕草が気に入らなくて、また殴られるの繰り返し。

手が血まみれになる程ドアを叩いて「家の中に入れてほしい」と泣き叫んだり、車の中から引きずり降ろされて一人だけ置いてけぼりをくらったり、冷たい言葉を投げかけられたり、とにかくそんな記憶しかない。

だけど、この程度ならまだ物理的な距離を離すだけで済んでいたはず。

私の性格ならこんな事をされても、あっけらかんと大人になったら仲良くできたはず。

だけど、その可能性すらも木っ端微塵にされる程、母は私を裏切り傷つけるのでした。

基本的には両親とも仕事をしていたので、一人で家にいることが多く、一時期は苔いじりが凄く好きでハマっていましたね。

苔を取って集めては寄せ集めて自分で新しい島?を作るみたいなことをしていました。

苔ってなんかいいですよね。

 

夜逃げを経験した小学生時代

この話しは唯一夫にだけ話したことがあります。

書きながら「夜逃げっていつの時代だよ?」って一人ツッコミをしています。

弟ができて、小学校に入学して、それなりに楽しく過ごしていました。

家での記憶は辛くても、学校は楽しくて大好きだった。

男勝りの女子だったと思います。

自分の人生にも、男子にも喧嘩を売っていました。

そして狭いアパートから海辺の一軒家に引っ越す話が出て、新しい家具や家電を買ったり、少しずつ荷物の搬入をしているところで事件が起こったのです。

小学校低学年の私には何が起きているのかサッパリ分かりませんでした。

ただ、毎晩怖い形相の男の人が家に訪れる日々。

子供ながらに只事ではない感じは分かっていました。

そして手に入れた家も家財もオモチャも全部、新しい家に放置したまま、友達にお別れも言えないまま夜中にこっそり逃げ出したのです。

その後、しばらく学校にも行けず知らない家で延々と母にドリルをやらされる日々が続きました。

あそこがどこだったのか私には分かりません。

どのくらいの期間、学校に行けていなかったのかもよく覚えていません。

一番記憶が曖昧な時期でした。

その後、きちんとした住まいに移り、ようやく学校に通えるようになったのが小学3年生の頃。

久しぶりに学校に通えるようになって、友達ができることがすごく嬉しかったのを覚えています。

しかし、またすぐに転校。

ようやく名古屋へとたどり着きます。

小学校4年生の秋頃。

すぐに仲のいい友達ができて、私の子供時代で一番楽しかった時期でした。

この頃はだいぶ落ち着いて生活できている感じがあり、古い家ながらも小学校時代を謳歌できていたと思います。

体が大きかったので、バスケ部に誘われて入部しました。

家庭のことを微塵も感じさせないほど明るい性格でクラスでもわりと目立つタイプだったと思います。

先生も友達も大好きで、学校がお休みの日が嫌で仕方なかったです。

小学校高学年になると土曜日の授業がなくなってしまうのがとてつもなく残念でした。

 

反抗期の中でも部活に救われた中学時代

中学に上がると同時にバレーボール部に入部。

小学校の時にはあったバスケ部がなかったので、最初は仕方なく…という感じでしたが、そこから6年間のめり込んでいきました。

ただ家庭環境は相変わらず、、、

電気を止められるのは日常茶飯事。

水道を止められて、公園に水を汲みに行った日もありました。

なんでうちにはそんなにお金がないのか?

子供の私には全く分かりませんでした。

そしてしょっちゅう訪ねてくる大人たちに対して「母はいません。」と言い続ける日々。

うんざりしていましたが、部活にのめり込むことで全てが忘れられた。

中学の先生も大好きで3年間同じ担任でした。

今思うと、問題あり家庭だったから?笑

でもそんな家庭環境に反して私の成績は学年でも上位だったし、部活ではキャプテンを任され、遅刻もしないし、友達も普通にいたし、自分で言うのもなんですが模範のような生徒でした。

これは『母のようになりたくない』という精神がかなり強かったと思います。

反面教師ですよね。

絶対にあんな人間にならない。

そんな一心でした。

だけど、世間は残酷で…

普通に生きてる私は常に母に傷つけられてきました。

私の友達や後輩の親に母がお金を借りていたことが発覚。

親友だと思っていた子の親にも「二度と関わるな」と言われ、学校の保護者たちが数人で家にやってきて親の所在を聞かれたことも。

「学校ではあんなに頑張っているのにね…」という一言が忘れられません。

子供の私にどうしろって言うの?

私に何ができるの??

親がやったことでどうして私がこんな目に遭わないといけないの?

抗えない人生に一番辛かった時期でした。

殴られる方がよっぽどマシ。

『私の生きている世界に入ってこないで。』

本気でそう思いました。

それ以来、もう私は自分の仲のいい友達を母には絶対に教えませんでした。

ですが、私が成長したことで考え方が変わります。

ずっと「あの人を消さなければ私は自由になれない」と思っていましたが

「いやいや、なんであの人のせいで自分の人生を台無しにするのよ!そんなの絶対に嫌だ!!高校卒業したら速攻で家を出て親と縁を切る!!!」となり、商業高校へ進学。

バレー部の強豪校でもあり、商業科なら高卒業後にすぐ働ける!と思い、かなり早い段階で自分の人生の進路を決めました。

成績も良かったので、推薦枠で無事に合格。

 

奨学金を借りてでも青春した高校時代

高校生になったんだからバイトすれば?って話しなんですが、この時の私は部活が全てでした。

お金がない状況でも顧問の先生に支えられ、なんとか継続。

本当に私は母親以外には恵まれていたと思います。

高校1年の時、奨学金を借りることが決まりましたが、母がなぜかそのお金を別のことに使い込み…

担任からは「あなたのお母さんは奨学金を借りてるのに授業料を払っていない!」と責められたこともありました。

「そんなこと言われても」って当時は担任に対して怒ってましたね。笑

母も話しが通じないというか、嘘しかつかない人間で、まともに話し合えた経験がありません。

それでもなんとか部活も三年間やりぬき、引退した後すぐに近所のケーキ屋さんでバイトを開始。

就職するまでの約半年間ほどお世話になりました。

平日も休日も入れるだけ入って、高校卒業後の引っ越し代を貯金。

進路は就職一択。

1日でも早く家を出たかった私は先生から大反対されながらもw

寮つきのエステサロンに就職を決めました。

高校での成績も良かったので、企業への就職を勧められましたが、普通の事務仕事なんて絶対に嫌だったので。

どうせなら美容の仕事に携わりたい。

だけど、手先が不器用だったので美容師ではなくエステサロンにしよう。

そんな安易な理由。

だけど、ようやく母のしがらみから解放されて自分だけの世界にいける!

その嬉しと期待感しかなかった。

自分で就職してから高校の奨学金と、顧問の先生が立て替えてくれていたお金を完済。

こんな悲惨な子供時代でも母への恨みを原動力に、反面教師で人生に争ってきました。

だけど、私は恵まれてたんだよね。

友達や先生が本当に素晴らしかった。

家庭での苦しいこと全部忘れられた。

こんなにも前向きに強く生きてこれたのは、自分の魂の強靭さとw

周りに寄り添っていてくれた人達のおかげ。

私を「可哀想な子」と扱うのではなく、事情を知っていても変わらぬ関係を続けてくれた人達のおかげです。

自分の育ちの悪さを必死に隠してきましたが、それでも今こうやって幸せに過ごしてきて、もう隠さなくても良いんじゃない?という気持ちでこの記事を書いています。

みんなありがとう。

そして子供の私、本当によく頑張ったね。

お疲れ様でした。

楽しかったことも沢山あるけれど、私は二度と子供時代には戻りたくありません。

 

子供は親を選べない

よく『子供は親を自分で選んで生まれたきた』なんて言いますよね。

私はずっとこの言葉を恨んでました。

「そんな訳あるか」

「あんな酷い親を選ぶもんか。」

「私はあんな親を選んでない」

こんな言葉が出るのは平和な環境で親に愛されて育った人だけ。

親に苦しめられてきた子供はどうなる?

そんな風に勝手にイライラしていました。

虐待で亡くなる子供のニュースを見ては一歩間違えれば私が死んでいたかもしれないという悲しみと怒りで震えていました。

私は母を恨み、強い憎しみで争ってきた。

自分が殺されるくらいなら相手を殺そうとも思ってた。

だけど心が優しい子供は、どんなに酷い親でも親を求めるらしい。

親を裏切れないらしい。

私の妹もいまだに親に捨てられたことで苦しんでいる。

私は親を捨てた立場で、優しさや愛情のかけらもない。

そんな風に思うこともあった。

何度も忘れようと思っては傷が疼くの繰り返し。

白いシャツに墨が染み込むように、なかなか消えない心の傷。

『親が子供を選べないように、子供だって親を選べない』

そう強く思っていました。

過去形、、、

実は今は少し考え方が違います。

この話しは長くなるのでまた別の機会に。

 

ただ一つ言えるのは、私は今とても幸せだということ。

そして今もし親のことで苦しんでいる人がいたら、なにか少しでも力になれることがしたい。

あなたの未来はあなたの力で変えられる。

負けないでって伝えたい。

どん底だった子供時代を過ごしてきたけれど、私は今とても幸せです。

だから今は母に対して「産んでくれてありがとう」と思ってる。

決して彼女が私にしてきたことを許すつもりはないし、もう正直どうでもいいとさえ思ってる。

だって私は私の人生を生きてるから。

もう母は、あの人は関係ない。

私の世界にはいない。

今は大好きな人と出会い、大好きな仕事をしている。

それがただただ嬉しくて楽しい。

だから産んでくれたことにだけは感謝する。

今が辛くても人生きっと楽しいことあるよ。

 

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